主題を知ったら、とがった部分が見えてきた ──ビアズリー展で開かれたまなざし
ただ、白と黒の絵があるから行こうと思っただけだった。日本画でも水墨画でもない。けど線が細くて繊細な感じ。幾何学的な形だったら好きだけど、人がモチーフならどうなるかなと。
って思っていった展覧会。色々と知的好奇心をくすぐられ、気付きがあった!

目次
- 物語(サロメ)は当然知らない。
- サロメって何者?背景を知って見えたもの
- ツッコミ系挿絵とビアズリーの皮肉
- 描くことが技術を動かすという逆転劇
- 知ることで広がる世界と、もうひとつの「とがり」
1. 物語は当然知らない。
最初にビアズリーの絵を見たときに惹かれたのは、構図、余白、そして圧倒的に美しい“線”だった。特に線の流れには目を奪われた。でも、その線が何を描いているのか、どんな物語なのかは、まったく知らなかった。
展示されていたのは『サロメ』の挿絵。けれどその時点では、「誰が誰で、何してんの?」としか思ってなかった。とにかく、細かくて綺麗。でも、ただそれだけ。
正直、一番印象に残った作品は『リューシストラテ』の挿絵。
女性たちが「戦争が終わるまで男と関係を持たない」という、古代ギリシャ喜劇に基づいた“セックス・ストライキ”の物語。
「18歳未満ご遠慮ください」って注意書きがあって、そりゃ印象に残る(笑)。
確かに直接的な表現だったけど、サロメにも裸はあるし、そこまで?って気もした。
あと、サロメ関連でミュシャの作品が展示されてたのも新鮮だった。彼女(ミュシャのサロメ)にはどこか親しみを感じた。カラフルでどこかアニメっぽいからかな。
で、展覧会終了。
……っとは終わらせない。感性に触れるだけでももちろん楽しいけど、気になったなら調べてみるのも一興。だったら絵のことを知るっきゃないでしょ。
2. そもそもサロメって何者?背景を知って見えたもの
一般的にはサロメは妖艶な女のイメージがあるらしい。
そうなのか。確かにベリーダンスっぽい絵があった。ドラクエ4のマーニャ的な感じか。
サロメってのは新約聖書に出てくる登場人物の名前。ヨハネの斬首っていうエピソードの部分。
それが大元なんだけど、オスカー・ワイルドは少しアレンジを加えて『サロメ』ってタイトルの本を出版。その挿絵を頼まれたのがビアズリーってわけ。
ワイルド版と新約聖書版のサロメの違いは例えばこんな感じ。
- 新約聖書版:母・ヘロディアが洗礼者ヨハネに恨みを持ち、サロメを利用して復讐。
- ワイルド版:サロメ自身がヨカナーン(ヨハネ)に恋し、拒絶されて怒り狂い、首を求める。
この“主語の違い”が、サロメという存在をまるで別人のように見せて、妖艶な女のイメージができたんだなと。
新約聖書の方では、ヘロディアに利用される操り人形みたいな感じだったのが、ワイルドのサロメでは、自分の意思で突き進む女性像を思わせる。
あと、ワイルド版サロメの夢中になり方がなかなか狂ってる。
ヨカナーン←サロメ←シリア人の兵士という三角関係。サロメがキスを迫って、兵士がそれ見て自殺とか、展開がエグすぎる。
絵の中で横たわってるのって多分その兵士なんだけど、「で、誰が嘆いてんの?」ってなる。
そして、あの有名な“サロメがヨカナーンの首を所望する”結末になる。
……スクールデイズみたいなノリやん。あれもたしか、ヒロインが首を持ってどっか行くんだっけ。
3. ツッコミ系挿絵とビアズリーの皮肉
挿絵って、基本は物語をなぞるものだと思ってた。でもビアズリーの絵は違うかもしれない。
『プラトニックなささやき』という作品がある。
よく見ると雲の中に顔らしいものが描かれている。勉強会で聞いた解説によれば「ワイルドの顔じゃないか」という説があるらしい。
また『月の中の女』にも同じような顔が描かれていて、物語のシーンから誰かは推測できないとのこと。
真偽はわからないけれど、仮にワイルドの顔を書いてるとしたら、ビアズリーの“とがりっぷり”な人間性も見えてくる。物語に関係ない挿絵を描かず、ワイルドの顔を書くって、相当な反骨っぷり。
挿絵という役割を超えて、自己表現しちゃってる。
……とはいえ、この雲の話は展覧会で見たときには全然気づけなかった。だって、線は細かいし、小さいし、人多いし。「そんな細かく見れるか!」って思ったのが本音。
他にも、面白い小ネタとしては、首を持つ女性が描かれている絵、全部がサロメじゃないって話。
お皿に首を載せてるのがサロメで、自分の手で持ってるのはユディトなんだとか。こういう区別を知っておくと、細部まで絵を見る面白さが増す気がする。
4. 描くことが技術を動かすという逆転劇
技術的な面でも驚きがあった。ビアズリーの線を印刷するために「ラインブロック技法(亜鉛板エッチング)」が発展したという話。
なお、ラインブロックは凹版技法のエッチングとは逆で、凸部にインクを乗せ印刷を行う。
本の挿絵も当然印刷する必要があるけれど、ビアズリーの細密な表現は、当時のラインブロック技法ではうまく再現できなかったらしい。
でも、本を出版するために試行錯誤を重ね、ついには出版にこぎつけた。その裏には、絵に合わせて技術が進化するという、ある意味で“描くことが技術を動かした”という逆転現象があった。
これは地味にすごいことなんじゃないかと思う。普通は技術が先にあって、それを使って表現するのが常だけど、ここでは表現が先にあって、それに技術が追いついた。
まさに、絵が時代を動かした瞬間。勉強会の先生が言ってたビアズリーと言えば、ラインブロックという言葉もわかる気がした。
5. 知ることで広がる世界と、もうひとつの「とがり」
展覧会でも、ビアズリーの反骨精神は、なんも知らん素人でも伝わってきた。
彼は『イエローブック』から追放されたあと、『サヴォイ』で復活するんだけど、その流れもまた反骨精神の塊だった。
イエローブックから追放されたのは、ワイルドの同性愛裁判に関連づけられたからだ。(当時、同性愛は犯罪)
ビアズリーの活動拠点はイギリスで、ヴィクトリア朝時代。道徳や倫理が重視されていた時代背景を考えると、ビアズリーがいかに“攻めてた”かが見えてくる。
コンプラの波に真っ向から立ち向かう、エガちゃんみたいな芸風みたい笑。
『リューシストラテ』の作品は、『サヴォイ』でまた挿絵を描く前の時期だけど、勢いはまったく衰えてない。いや、むしろ過激になってる。
私はもともと宗教にはあまり興味がなかった。だから主題を知ろうとも思わなかったし、「何が描かれているのか」を深く見ようともしなかった。
でも、知ることで着眼点が増えた。
モチーフや背景を理解することは、絵を見ることと地続きなんだと気づいた。
主題を知ったら、ビアズリーがどれだけ“とがってた”かが見えてきた。
ワイルドの顔を挿絵に描いたかもしれない──ってなると、もう挿絵という枠を超えている。
ただの挿絵じゃない。静かに、鋭く、とがってる。
この部分は、主題を知らなきゃ見えてこなかった。