考え事をしたいときに"現代アート"を見に行く。

美術館で絵画を見るのは好き。
なぜなら考えることから解放されるから。

絵画の中でも特に抽象画が好き。
言葉から解放されるから。
言語化しようとする自分がぶっ壊されるから。

言葉は感覚そのものではないと思う。
もしかしたら、禅みたいな感覚が自分にあるのかもしれない。

そんな私でも、
現代アートを見に行くときはあらかじめ目的を設定する。
ほかのアートとは区別している。

その目的は考え事をするためである。
そして、頭の中で言語化を試みるものである。

大前提として、自分は考える事と言語化する事はめっちゃ嫌い。
それをするときって、ビジネスしている感覚に近いのだ。

現代アートの展示で印象的だったのが、2023年に森美術館で開催された「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」であった。

美術館に入って開幕一作品目。
目に入ったのはジョセフ・コスース(Joseph Kosuth)のシャベルの作品。
(彼の作品だと椅子が有名だが)

これだ。こういうのだ。
シャベル、シャベルの写真、シャベルの辞書の定義文(文字)が並んでいる。

頭を巡らせて問いを立てる。

・なぜ、シャベル、シャベルの写真、シャベルの辞書の定義文(文字)を一緒に並べているのか。
 同時に見せることで関係性を考えさせようとしているのか。

・題材がシャベルではないといけないのか。

あえて、一緒に並べたのはそれらは同じものを指しているといいたかったのかもしれない。
だったら、辞書の定義文を読んだら実物は想像できたのか。

記憶があいまいだが、確か辞書の定義文は機能的な説明だった気がする。掘るためとか。
土をたたいて固めるとかそんなんじゃないかな。

一方、写真は実物のイメージを伝えるもの。

実物=写真+辞書の定義文。
どういつのものというより上の足し算が3つものの関連性なのでは。

つまり、今回の展示会における「算数」?
いや、今いるの「国語」のコーナーだしな。

機能は誰が定義したのだろう。

スコップをシャベルというのはだめなのか。
シャベルを振り回して、人を攻撃したら、シャベルだったものはそうではなくなるのか。

題材がシャベルである必要性は本当にわからない。
シャベルでないと彼の思うメッセージや問いかけは伝えられないものなのだろうか。

いろいろと考える、もやもやとする、
一つの気づきとしては、言葉は実態を伝えるのには正確ではないということ。

普段生きていてこんなこと考えようともしない。100%。

なぜなら、自分の生活に関連しないからだ。加えて私は考えることは好きではないし。

なのに、美術館で展示品として置かれたときは、いろいろ考えるのである。
普段生きている中で考えないようことを。

考えることが嫌なのにそれをするのはなぜか。そもそも現代アートを見に行くのはなぜか。
理由は考えたいからだろう。

矛盾しているようだが、考えることをしたくないが、放棄もしたくもない。
嫌だから自分からは完全切り離すっていう考えるのは違うって思っているかもしれない。

自分に考えさせるためには、人間が備えている本能を利用する。
損失回避だ。確か行動経済学にも出てきたと思う。

徳を得るよりも損を回避したくなるような、人間の習性。

美術館は高い。入館料が高い。
そんな中、意味わからん現代アートを見に行って何も考えなかったら
もったいないやん。

何に価値を感じて払っているのかわからなくなる。

私は作品が普段考えないようなことを考えさせてくれる“媒介”になっていることに価値を感じている。

多分当時見に行ったのは自己投資の位置づけで行ったのだ。
正解がないものについて、考える練習として。

私は長らくあらゆることには100%正しいとされる正解があると信じていた。
だが、それは学校教育で洗脳された結果だった。

学校教育と実社会で働くことの大きなギャップとして、正解がないことを強く感じる。
私はテストで高い点は取れたけれど、社会人として自分をフィットさせていく過程で挫折した経験がある。

そのサインが表れたいたのが大学。
主体的に問いを持ち、他者とディスカッションすることが求められるようになって、自分にとって教育が急激に変わったと感じた。

あれがついていけなかった。

当時はわからなかったけど、それはそれまでの学校の教育に洗脳されて、自分をモデルチェンジできなかったのだろう。
それは何事にも正解、答えがあるっていうもの。正解思考、っていうのかね。

だからディスカッションで人の意見なんで興味なかったし、なぜディスカッションするかもわからなかった。
それよりも早く答えを教えてよ、教授がそれを教えてくれるんでしょって。

問いなんて立てたこともない。
自分には知識がないので、考えたって正しい答えにはたどり着けないし。

って当時の自分は考えていた。現代アートを見て、少しは考える力がついたのかな。

最後は直近みた面白いと思った“現代アート”を、最後に紹介して終わろうと思う。

2025年の今年に行ったポケモン工芸展でみた作品2つ紹介する。

※私は鑑賞する際、キャプションや作品名は後で見る。


展示空間内のこの氷をまじまじ見る。
ポケモン工芸展。

これは明らかに何か具体モチーフのポケモンではない。
これはいったいなんだ。

氷、クリスタル。だろう。
少なくともポケモンではない。

で、キャプションを見ると『つらら落とし』
そうかポケモンって技名もありか!


で、その次は展示空間内に漆っぽい感じのつやっつやの黒い色で塗られた現代アートっぽいオブジェ。

わからん。
つらら落としの『技名もありなのか』という枠の外れた発想がなければ、これも技名などと思いもしなかっただろう。

だが、これも技名なのかもしれない。
数少ないポケモン体験、ダイヤモンドパールの記憶を探る。

いや、それにしても、この黒、つやっつやでエロイな。

キャプションを見る。

かげうちか!

友達と二人でそりゃわからんわってなる。

美術館の帰り。

一緒に行った友達に「何が面白いか」と聞いたら「かげうち」と答えた。
「面白いよね。キャプションがなければわからなかった。優しさだよね。」

そんなことを言いながら、一方で自分をメタ認知する。

今回の鑑賞は完全クイズ大会みたいなもんだった。
これなんだろうって思って、いろいろなことを考える。

そしてわからんってなる。
最後でキャプションみて、はっとなる。ほっとする。

つい、こういうのをみると
キャプションを正解だと思って、これはそれを表しているのかなるほどってなる。

油断していると正解を探している。
そんな自分にふふってなる。

作者の意図通り見ることが正解ではない、自分がどう見たかが正解なのにね。
たまにはそんな自分を許したい。














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